旅の206日目 – 日記
地球歴2482年、星間暦元年
「アビス」という音列は、今日も明確に発せられた。昨日よりもはっきりと、そして意図を持ったような抑揚で繰り返されている。単なる自己の名を示しているだけでなく、まるで“応答を求めている”ようにも聞こえた。
僕たちはあえてその音に近い信号を複数パターン送り、どの反応が最も強くなるかを観測した。その結果、ある一つの周期に対してだけ、アビスは即座に発声を返した。彼が意識的に“聞き分けている”ことは、もはや疑いようがない。
興味深いのは、球体の光が今日から変化の仕方を変えたことだ。以前のような連続的な点滅ではなく、「間」を意識したような断続的パターンが挿入されるようになった。これは言語的な構造――つまり、“会話”の前段階と呼んでいいのかもしれない。
船内でも、もう誰も彼を「ケースの中の男」とは呼ばなくなった。「アビス」という名前はすでに自然な呼称となり、記録ログにもその名が使われている。名前があるだけで、彼が“他者”として僕たちと同じ世界の中に立っているように感じられるのが不思議だ。
今はまだ、断片的な声と光のやり取りにすぎない。
だが、それは言葉を持たなかった頃の人類が、初めて火を扱った瞬間のようにも思える。ここから何が始まるのか――胸の奥がざわついて仕方がない。
明日は、より複雑な信号を送り、アビスがそれにどう反応するかを確かめるつもりだ。
この小さなやり取りが、やがて“対話”へと進化していくことを信じて。



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