旅の204日目 – 日記
地球歴2482年、星間暦元年
今日、彼は初めて“自分を示すような音”を発した。
これまでの断片的な発声とは違い、明確な抑揚と繰り返しを持つ、特定の音の列――それは「アビス」に近い響きを持っていた。もちろん、僕たちの言語とは異なる発音体系だが、その音の構造は意図的で、偶然とは思えない。
解析班の初期報告によれば、この音列は球体の光パターンの周期とも連動している可能性がある。まるで声と光の両方で「これは自分だ」と伝えているかのようだ。僕はその音を何度も再生し、繰り返し口に出してみたが、聞けば聞くほど「名」としての響きを感じる。
船内でも、その音を「アビス」と呼ぶ者が出始めた。まだ正式な呼称ではないが、誰もがその名に引き寄せられるようだった。意味の分からない音が、気づけば“存在の輪郭”を持ち始めている。
夜、自室で考え込んだ。彼が本当に「アビス」と名乗ったのか、それとも僕たちがそう理解しただけなのか――それはまだ分からない。
だが、今日を境に、ケースの中の“彼”は単なる未知の存在ではなく、アビスという「名」を持った一つの“誰か”として、この船の記録に刻まれることになるだろう。
明日は、この呼称が偶然なのか意図なのかを確かめるため、再び同じ信号パターンを送ってみる予定だ。もしそれに応答が返ってくれば、僕たちはついに“名前”を共有できたことになる。
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