旅の211日目 – 日記
地球歴2482年、星間暦元年
今日もアビスとのやり取りが続いたが、彼の記憶は依然として霧の中にある。問いかけに対して反応はするものの、内容に一貫性がなく、自分がどこから来たのか、なぜこの船にいたのかについては何も語れないようだ。まるで記憶の大部分が欠落しているのではなく、最初から“持っていないような印象さえある。
それでも、「アビス」という名には強く反応する。声に出してその名を呼ぶと、彼の瞳がわずかに動き、球体の光も同期して変化する。彼にとってこの名だけは、深い層に刻まれた“核”のようなものなのだろう。
午後、僕たちは彼の記憶を刺激するための映像記録を見せてみた。地球や星間航行の歴史、かつての人類文明の断片…。しかし、どれにも強い反応は見られなかった。ただ、古い星図の映像を流したときだけ、脳波のパターンに一瞬だけ大きな変化があった。あれが何を意味するのかは、まだ分からない。
彼の過去は謎のままだが、「アビス」という名がその謎を解く鍵になると直感している。名が先にあり、記憶が後から追いついてくる――そんな順序で再生される記憶が、この宇宙にはあってもおかしくはないのだろう。
今日の観測を終えたあと、僕は長い航海の記録を読み返しながら、ふと彼の“空白”と僕たち自身の“未来”がよく似ていることに気づいた。どちらもまだ何者でもなく、何者になれるかを模索している最中なのだ。
少しだけ気持ちを落ち着けたくて、夜は合成野菜のシチューを作った。船内で育てたハーブを少し加えるだけで、味に深みが出る。この静けさの中で、アビスの眠っている“何か”が、ゆっくりと目覚め始めているのを感じる。



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