旅の215日目 – 日記
地球歴2482年、星間暦元年
今日は、アビスの記憶にわずかな“ひび”が入ったような一日だった。昨日の星図実験で最も反応が大きかった星系の座標データを改めて提示すると、彼の瞳がはっきりとその一点を追った。そして、今までの曖昧な発声とは違う、わずかに“意味”を持つような音が口からこぼれた。解析班はそれを単なる偶然とは見ていない。彼の内側で、何かがゆっくりと結びつき始めているのだろう。
それでも、彼は自分の名以外をほとんど語らない。問いかけにも、沈黙か短い音の列で応じるばかりだ。ただ、その沈黙が少しずつ“重さ”を持ち始めているのを感じる。記憶がまったくないのではなく、言葉にすることがまだできないだけなのかもしれない。
一方で、球体の光も再び不思議な変化を見せた。今日のデータ解析によれば、光のパルスの一部がノア・アルカ号の標準通信信号と極めて近い周期を描いていた。もし偶然でなければ、アビスは僕たちの通信構造そのものを“学び”始めている可能性がある。記憶は失われても、理解する力は確かに残っているのだ。
夜、自室で記録を読み返しながら考えた。
アビスは「思い出せない存在」ではなく、「思い出す必要のある存在」なのかもしれない。彼が記憶を取り戻すとき、僕たちはこの宇宙に隠された“何か”の輪郭を見ることになるのだろう。
静かな夜だ。星の光がいつもより少しだけ近く見える。
その向こうに、アビスの過去が眠っている気がしてならなかった。



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